般若波羅蜜多心経

唐三蔵法師玄奘譯

岩波文庫  中村 元   紀野 一義   訳註より

*ひろさちやさんの著書「こだわりを捨てる」(般若心経)からの抜粋です。

・大谷大学仏教学 一郷 正道  教授の"空"の解説


*1
観 自 在 菩 薩
 かん       じ       ざい         ぼ       さつ
観自在菩薩
全知者である覚った人に礼したてまつる
*観自在菩薩が

 

*2
行 深 般 若 波 羅 密 多 時
 ぎょう      じん      はん          にゃ        は          ら        みっ        た         じ
深般若波羅密多を行じし時
求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していたときに、
*かつてほとけの智慧の完成を実践されたとき、

 

*3
照 見 五 蘊 皆 
 しょう      けん         ご       おん      かい       くう
五蘊皆(みな)空なりと照見して
存在するものには五つの構成要素があると見きわめて
*肉体も精神もすべてが空であることを照見され、

 

*4
度 一 切 苦 厄
  ど       いっ        さい        く       やく
一切の苦厄を度したまえり
しかも彼はこれらの構成要素がその本性からいうと実体のないものであると見ぬいたのであ
*あらゆる苦悩を克服されました。

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*1

観自在菩薩が般若波羅蜜を行じられて、すべてが「空」だと悟られ、苦しみ、災厄を克服されました―というのです。

では、観自在菩薩とは誰でしょうか・・・・・・?

これは観世音菩薩、略して観音菩薩、いわゆる観音様です。

『観音経』というお経があります。この経は本来『法華経』の中の一章なんですが、それを独立させて一つの経典として読んでいます。で、『法華経』を訳したのは羅什らじゅう三蔵(鳩摩羅什くまらじゅう)ですが、彼は原語の"アヴァローキテーシュヴァラ"を、

 ―観世音菩薩(観音菩薩)―  

と訳しました。それに対して『般若心経』を訳した玄奘三蔵は、 

 ―観自在菩薩―  

と訳しました。したがって、観自在菩薩と観世音菩薩は、まったく同じ菩薩なんです。訳語の違いだけなんです。

だから、『般若心経』は観音さまのお経なんです。『般若心経』と『観音経』は姉妹経典ということになりますね。

 

―――中略―――

 

この菩薩は、自由自在にものを観ることができます。

そんなこと簡単だ。誰だって眼さえあれば、自由自在にものを見ることができる。と、そんなふうに言わないでください。自由自在にものを見ることは、あんがいにむずかしいものです。

たとえば、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」といいます。びくびくした心で見ると、枯れ尾花が幽霊に見えてしまうんです。自由というのは自分に由ることです。しかしわたしたちはなかなか自分に由れません。環境に支配されます。周囲の影響で自分の心がびくびくしたり、明るくなったりします。そのたびにものの見え方が違ってきます。いわばわたしたちは周囲の奴隷になっているのです。

それが証拠に、インチキ宗教は、「あなたに背後霊がついていますよ」と言って人々を脅します。背後霊だとか自縛霊だとか、邪霊だとか動物霊、さまざまな霊を考え出して、それでもって人々を脅す。脅されると、弱い人間はたちまちそのような邪霊を信じてしまい、インチキ宗教にしてやられてしまうのです。

わたしなんか、「あなたに邪霊がついていますよ」と言われても―実際にそう言われたことがあります―いっこうに動じません。わたしは『般若心経』を勉強しているからです。

よく、霊なんて存在しない―と主張される仏教学者もおられます。しかし、それはまちがいです。霊が実際に見える人がおいでになります。『般若心経』が教えているのは、すべてのものは、

―見える人には見える、見えない人には見えない。感じられる人には感じられる、感じられない人には感じられない ― 

ということです。それが「空」なんです。だから、霊の見える人には見えるのです。見えている人に、見えているのはおかしいと言っても無意味です。だから、われわれにいえることは、

「あなたには邪霊が見えるのですね。しかし、わたしには見えません」

というだけです。わたしは、わたしに邪霊がついていると言う人に向かって、そう言います。そして、

「あなたが邪霊を持っているのですよ。あなたの心の中にある邪霊を消滅させなさい」

と忠告してあげます。「お釈迦さまはそういっておられます」とわたしが断言するものですから、相手はすぐに引っ込んでしまいます。

もっとも、相手が心の中で何を考えているのかはわかりませんが・・・・・・。

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*2

◎「彼岸に渡れ!」 

大きな、流れの激しい川があります。川の左側を此岸、右側を彼岸と呼びます。左右はどちらでもかまいません。

一方が此岸で、一方が彼岸です。

サンスクリット語では、此岸を"サハー"、彼岸を"パーラム"と言います。

漢訳仏典では、"サハー"を「忍土」と訳しています。わたしたちが住んでいる現実世界がサハーですが、ここはいわば満員電車の中のような世界です。全員は座れません。立たねばならない人も大勢います。座っている人も、心理的圧迫を受けます。また、肌と肌が触れ合ったり、女性の長髪が隣の人の顔にかかったり、足を踏まれたり、いろいろと迷惑を受けます。そうした迷惑を、わたしたちは耐え忍んで生きねばなりません。"サハー"は「耐え忍ぶ」といった意味であり、それで「忍土」と訳されるのです。

また、漢訳仏典では"サハー"を音訳して、

 ―――娑婆しゃば――― 

としています。これはもう完全に日本語になっています。

 

 ―――――― 中略 ――――――

 

そこで、仏教は、この娑婆を捨てて、

 ―――彼岸に渡れ!――― 

と教えています。彼岸は、先程言ったように、サンスクリット語で"パーラム"。そして、"渡ること"はサンスクリット語は"イター"。したがって、「彼岸に渡れ!」は、サンスクリット語では"パーラム+イター"です。

わたしたちはサハー(娑婆)にいます。でも、サハーにいたのでは問題は究極的には解決できません。サハーにいたのでは駄目で、パーラムにイターせよ―――それが仏教の教えです。『般若心経』の教えです。ちゃんと語呂合わせができていますね。

 

 ―――――― 中略 ――――――

 

あるときわたしはインド人と話していて、

「日本では真の宗教教育が行われていない。それで日本の教育はおかしくなっている」

と言いました。するとインド人は、当然のことに、「じゃあ日本では、どんな教育をやっているんだ?」と訊いてきます。そこでわたしは、

「日本では、親は子に、学校の先生は子どもたちに、

"他人に迷惑をかけるな!"

と教えている。こんな教育はおかしいだろう・・・・・・」 

と答えました。それでインド人は、わたしの言わんとすることを納得してくれました。だが、横にいた日本人には通じません。当然ではないか!?そう教えて、なぜいけないのか!?日本人はそうわたしに尋ねました。

だから、わたしは、それじゃあインドでは、こどもたちがどう教わっているか、インド人に聞きなさいと応じました。インド人はニコニコしながら、

「わたしたちは子どもたちに、"あなたは他人に迷惑をかけているのですよ"と教えています」 

と答えてくれました。わたしに言わせるなら、これが本当の宗教教育なんです。

わたしたちは他人に迷惑をかけているのです。

 

―――――― 中略 ――――――

 

極端に言えば、わたしたちが生きているだけで迷惑なんです。一人の人間が増えると、確実にそれだけ地球上の酸素も食料も少なくなります。その人の排泄物で地球が汚染されます。

だから死んでしまえ―――と言っているのではありません。わたしたちは他人に迷惑をかけていることを自覚してほしいのです。

そして、わたしたちは、自分が他人にかけている迷惑を他人に赦ゆるしてもらっています。赦ゆるしてもらって生かされているのです。

それ故、わたしたちもまた、他人の迷惑を赦ゆるさねばなりません。

自分がかける迷惑は赦ゆるしてもらうが、他人の迷惑は赦さない―――というのでは、あまりにも自分勝手です。

日本人は、他人に迷惑をかけるな!と教えますが、それだと、自分が他人にかける迷惑は小さく計算して、他人から受ける迷惑を過大に評価することになりかねません。わたしたちはそれほど迷惑をかけていないのに、あの人はものすごく迷惑をかけている、といったふうになります。それは宗教の考え方ではありません。

インド人は、わたしたちは他人に迷惑をかけずには生きられない存在だ。わたしたちは自分がかける迷惑を赦されている。だから、わたしたちは他人の迷惑を赦さねばならない。

互いに赦し合い、迷惑をじっと耐え忍びつついきるのだ。それがこの娑婆の生き方だ。

娑婆は忍土なのだ―――。そう認識しています。それが"娑婆"という言葉にこめられた意味です。

 

―――――― 中略 ――――――

 

§ほとけの智慧の完成――般若波羅蜜

 

―――――― 中略 ――――――

 

まあ、ともかく、出家して彼岸に泳いで渡ろうとした小乗仏教は、釈迦の教えを誤解したのです。釈迦は出家できない大勢の人間を救いたいと考えておられたのですから。

では、在家の人間、此岸に生きる人間、娑婆にある人間をそのままで救うには、どうすればいいでしょうか・・・・・・?

何かいい方法はありますか?

あります。じつは、それが、

―――般若波羅蜜―――

です。すでに述べたように、これは正しくは"般若波羅蜜多"で、「彼岸に渡ること」といった意味です。しかし、この言葉には、別に「完成」といった意味もあります。

ですから、"般若波羅蜜"は、

「智慧でもって彼岸に渡ること」

  「智慧の完成」

といった二つの意味があるわけです。彼岸は仏の国です。その仏の国に智慧でもって到達しようと言う事は、ほとけの智慧を完成させることだともいえます。したがって、わたしたちは、"般若波羅蜜"を、

―――ほとけの智慧の完成―――

と理解しておきましょう。

わたしたちは、なにも無理して彼岸に渡ることはありません。裸になり、財産も妻子も捨て、出家してしか彼岸に渡らずともよい。在家のままで娑婆に住んでいてよい。しかし、彼岸の智慧、ほとけの智慧を完成させたい。そのほとけの智慧でもって娑婆世界を眺めるなら、きっとすばらしい生き方が見つかるだろう。『般若心経』はそう考え、わたしたちに「ほとけの智慧の完成」をしなさい―――と教えています。

それが『般若心経』の言いたいことです。

わたしたちは、もう一度、『般若心経』の冒頭の文章に戻りましょう。

≪観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。≫

(観自在菩薩は般若波羅蜜(ほとけの智慧の完成)を実践されて、すべてが「空」だとわかり、あらゆる苦しみを克服されました)

観自在菩薩は奴隷であることをやめて、自由人になった菩薩です。彼がどうして自由人になれたかというと、出家したからではありません。在家のままでいたのですが、般若波羅蜜を実践したからです。その般若波羅蜜の実践によって、「すべてが"空"である」と悟ることができ、それでいっさいの苦しみを克服されました。だから、わたしたちも観自在菩薩にならって般若波羅蜜を実践し、すべてが、「空」だと認識し、苦しみを克服すべきです。 

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*3

五蘊とは、『五つの集まり』といった意味で、

色・・・・・・あらゆる物質

受・・・・・・感受作用

想・・・・・・表象作用

行・・・・・・意志作用

識・・・・・・認識作用

をいいます。もっとも、色は本来は人間の肉体を意味し、そして受・想・行・識の四つが人間の精神ですから、五蘊は「肉体と精神」になります。しかし、のちには色はすべての物質的存在を指す言葉になりました。まあ、わたしたちは、五蘊とは、

――― あらゆるもの ―――

と解釈しておきましょう。日本語の"もの"という言葉は便利がよくて、「物」ばかりでなく概念的存在をも含んでいます。物質ばかりでなしに、時間だとか正義といった概念的存在まで、すべてを含めて「もの」(五蘊)だと思ってください。

したがって、「五蘊皆空」とは、

――― すべてが「空」だ ―――

ということです。観自在菩薩は、般若波羅蜜を実践することによって、「すべては"空"だ」といった悟りに達することができたのです。

 

――― 中略 ―――

 

「空」というのは、ものには物差しがついていない。物差しは人間のほうが持っています。その人間の物差しは、ものとものとの相互関係によって変わってくる。それが「縁起」であり、「空」であります。

(管理人注 ― 論理的相互依存関係)

 

――― 中略 ―――

 

(管理人注 ― 時間的相互依存関係)

これは、普通には「因果」と呼ばれているものです。「何の因果か、こういう夜逃げをせねばならないありさまになってしまいました」「因果を含める」といったかたちで使われる言葉です。「因果」とは、もちろん原因と結果です。

しかし、仏教の「縁起」の教えは、そのような因果ではありません。

仏教は因果の理(ことわり)を教えていると言う人がいますが、因果論を説くのは別段仏教だけではありません。原因があって結果があるというのは、キリスト教だって言うでしょうし、科学だってそう言っています。

それどころか、仏教は、むしろ因果にこだわるな! と教えています。もう少し詳しく言えば、

――― 因にこだわるな! 果にこだわるな! 因果にこだわるな! ―――

というのが仏教の教えです。ここのところがしっかりわかれば、わたしたちに『般若心経』がわかったことになります。

まず最初に、仏教では、

――― 因と縁 ―――

ということを説いています。これは"因縁いんねん"ですね。もっとも、"因縁"という語は、「やくざに因縁をつけられた」といったふうに、変な言いがかりの意味に使われますが、仏教が言っているのは、「因と縁」です。そして、

因は・・・・・・直接原因

縁は・・・・・・間接条件

です。朝顔が発芽する因(直接原因)は種です。種がなければ、絶対に発芽しません。では種があれば発芽するかといえば、机の上に種を置いておいても発芽しません。種を土に蒔くことが必要です。その上、水分も必要でしょうし、適当な温度が必要です。そのような諸条件が縁です。

したがって、種が発芽するといった結果になるには、さまざまな縁が必要です。因が果を得るには縁が必要です。因は縁によって果を結ぶのです。あるいは、すべてのものごとは因と縁によって生じたり起きたりします。それが、

「因縁生起」

それを略して"縁起"といいます。これでおわかりのように、仏教では「因果」的にものを見るより、「縁起」的にものをみています。因果だけでものを見るな―というのが仏教の教えだと思ってもいいでしょう。縁というものを非常に重要視しているわけです。

 

――― 中略 ―――

 

この世の中は縁だらけなんです。わたしが電車で座席に座れたのは、その電車に乗らなかった多くの人のおかげ(縁)であり、今夜夕食にしゃぶしゃぶを食べることができるのは、やはり大勢の人の縁です。

「袖触り合うも多生の縁」

ということわざがありますが、電車の中で隣の人と袖が触れ合ったという縁も、輪廻転生を繰り返しているあいだに何度も持ったその人との結果です。また、このことわざは、

「袖触り合うも他生の縁」

といったふうにも言われますが、この場合は、いま電車の中で隣の人と袖が触れ合ったことが、来世(他生)においてわたしとその人が親子になったり夫婦になったりする縁かもしれない、と言っているのです。

本当にこの世は、

――― ご縁の世界 ―――

ですね。縁にならないものは一つもない。そう言ってもまちがいないでないと思います。

そして、このことを別の角度から見ると、縁によって因がもたらす果が違ってくるということになります。

たとえば、コンクリートの上に落ちた種は発芽しません。土の上に落ちた種は発芽しますが、日陰になったものはもやしになります。因は同じでも、縁によって果は変わってきます。

 

――― 中略 ―――

 

仏教の縁起の思想は、それ故、わたしたちがものを考えるとき、因だけで判断するな! ということになります。あるいは、因にこだわるな! です。なるほど、因は大事です。因がなければ果は生じません。けれども、因だけでも果が生じるではない。さまざまな縁が熟したとき、因は果を結ぶのです。

そのことは、釈迦も言っておられます。

《悪が熟さぬうちは、たとえ悪人でも幸福を享受できる。しかし、悪が熟するや、悪人は禍わざわいを経験する。

善が熟さぬうちは、たとえ善人でも禍を経験する。しかし、善が熟するや、善人は幸福を享受できる》

(『ダンマパダ』119、120)

したがって、わたしたちはなにかよくない状態になったとき、無理にその原因を探ろうとしないほうがいいのです。

子供が非行に走る、登校拒否をする。それには原因があるでしょう。しかし、原因は一つではありません。さまざまな原因 ―その子どもの性格・学校側の問題・親の教育観等々― があり、しかも無数の縁があります。「なぜ?」と考えて、簡単に答えの出る問題ではありません。

ならば、原因を探る必要はありません。因にこだはるな! です。

「なぜ?」と考えるから、インチキ宗教の脅しにひっかかるのです。やれ、水子の祟りだ、ご先祖さまを供養していない罰が当たったのだ、墓相が悪い、邪霊がついている、といった脅迫にしてやられてしまいます。

「なぜ?」と考えることをやめましょう。事態をあるがままに受け取ればいいのです。病気になれば、ただ病気になったのです。死ぬときは、ただ死ぬのです。それだけのことですよ。

同様に、結果にこだわることもやめましょう。

これは、願いごとをするな! ということです。

仏教では、原因のほうを、

――― 因と縁 ―――

に分けて考えますが、同じく結果のほうも、

――― 果と報 ―――

に分けて考えます。つまり、「因縁・果報」になるわけです。

では、果と報はどう違うか? わたしは、

果は・・・・・・直接結果

報は・・・・・・間接変化

と説明しています。ある一つのことが起きると、それにともなって周囲にいろんな変化が起きてきます。

 

――― 中略 ―――

 

たいていの物事は、われわれの予想しない結果になります。というより、物事の結果を正確に予想することなど、われわれには不可能なんです。物事はわれわれの計算どうりにならない。われわれの思惑通りにはなりません。

それ故、われわれは計算しないほうがいい。願いごとをしないほうがいいのです。

これは、要するに、欲を捨てよ! ということですね。普通、われわれは、願いごとをするのをいいことだと思っています。そして、無気力な現代の若者を、彼らには夢がない、希望を持たないと非難します。でも夢だとか希望という呼び方は美しいでしょうが、その実質は欲望です。それも、たいていは奴隷的欲望です。そんな欲望は持たないほうがいいのです。

人間、結果に執着すれば、奴隷になります。昔の青年は、「末ハ博士カ大臣カ」と夢を持ったでしょうが、博士になること、大臣になることに執着した人間は、本質的には奴隷です。そのためにはあくどいことも平気でやってのけるようになりかねません。とくに現在の大臣を見ていると、権力の奴隷としか思えません。

だが、読者は言われるかもしれません。

《少年よ、大志を抱け!》

といった言葉があるではないか。大志、願いを持つことはいいことではないか、と。

この言葉は、前に述べた札幌農学校初代教頭のクラーク博士のものです。有名な言葉です。

しかし、この言葉は誤解されています。クラーク博士の言葉を正確に引用するなら、

少年よ、人間のあるべき姿に到達するための大志を抱け!

(Boys,be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.)》

となります。わたしが本書で述べてきた言葉によって言うなら、クラーク博士は、若い人々に、

 ――― 奴隷的根性を捨て、自由人たらんとする大志を抱け! ―――

と言っているのです。一流大学に入る、一流会社に就職する、会社の社長になりたい、大臣になりたい、そんな願いは金の奴隷、権力の奴隷、世間の奴隷でしかありません。クラーク博士はそんな奴隷のすすめをしていると受け取っては気の毒です。彼はそれと正反対のことを言っているのですから。

「果に執着するな!」 ――― それが仏教の教えです。

 

――― 中略 ―――

 

観自在菩薩はこの縁起的なものの見方を身につけられたということです。そうして、いっさいの苦しみ、悩みを克服されたのです。

だから、われわれも観自在菩薩と同じように、「空」すなわち縁起的なものの見方によって、すべての苦しみ、悲しみ、悩みを克服すべきです。苦しいからといって、やけ酒を飲んでそれをまぎらわそうとする解決法は、かりにそれがときに有効であっても、仏教者のとるべき態度ではありません。仏教者は仏教者らしい解決法をとるべきです。

(管理人注――― 管理人大いに反省する)

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*4

(管理人注 ― この語句の解釈についてひろさちやさんの解説は、非常に高度であるがゆえに誤解がしょうずる可能性がある為あえて、文中に引用されている御話のみUP致します。)

 

――― 中略 ―――

 

この点に関しては、クリシャー・ガウタミーの話がいいでしょう。

インドはコーサラ国の首都の舎衛城(シュラヴァスティー)に、クリシャー・ガウタミーと呼ばれている女性がいました。彼女はあまりにも痩せていたので、"クリシャー(やせっぽち)"と綽名がついていたのです。

ガウタミーには一人の男児がいました。が、その子が突然死んでしまいます。

彼女はその子の屍体を腕にかかえて、狂ったように、

「どなたか、この子の生き返る薬をつくってください」

と叫びつつ、舎衛城の街を走り回っていました。

だが、誰も、どうしてやることもできません。

そのとき、釈迦が托鉢のために、祇園精舎から舎衛城の街にこられました。

そして彼女を見て、

「女よ、では、わたしがその薬をつくってあげよう」

と言われます。だから、その薬の原料になる芥子種からしだねを、これまで死者を出したことのない家から貰って来なさい、と命じられました。

クリシャー・ガウタミーは、死者を出したことのない家を探して回ります。家から家を訪ねて、「お宅は死者を出しましたか?」と問います。しかしどの家も死者を出しています。

そのうちに、彼女は正気に戻ります。そして、お釈迦さまのところに帰っていきました。

「女よ、芥子種を貰って来たかい?」

「いいえ、お釈迦さま、わたしには芥子種はもういりません。この子を安らかに眠らせてやります」

釈迦の問いに、彼女はそうこたえました。

これは有名な話です。

多くの人がこの話を題材に釈迦の教えを語っています。

 

――― 中略 ―――

 

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・大谷大学仏教学 一郷 正道  教授の"空"の解説

「空」は、仏教思想においても最も重要な教えの一つである。空は無と有、否定と肯定の両方の意味をもつが、世間では「から、あき、むなしい」等の意味で把握され、「無」の面だけが強調される傾向にある。

「空」は梵語「シューニャ」の訳語で、よく「無」とも漢訳される。しかし、その語根「シュヴィ」は「膨れる、成長する」の意味をもつ。たとえばサッカーボールは、外面的に膨らんでいても、内面的には空からの状態である。数字のゼロも、その原語は、「シューニャ」である。ゼロは、+プラス 、マイナス 両方になる可能性をもつ。我々人間という個的存在も、肉体、精神の諸要素からなる点では「膨らんだもの」であるが、一方、芯となる自己の本質、我を見出せない点からすれば「うつろな、非実体的存在」である。禅者は、その「空」を象徴的に円で表現するが、単に非存在、空白だけを意味すると誤解してはならぬ。

インドに二〜三世紀頃在世し、『般若経』を中心に空の哲学を大成したナガールジュナ(龍樹)は、縁起思想にもとづいて「空」を理解した。「此れあれば彼あり、此れ生ずれば彼生ず・・・・・・」という成句に示される縁起の意味は、ものはすべて、なんらかの他に依存して存在する相対的なものでしかないこと、絶対的存在は決してありえないことを教える。この絶対的、実体的存在(自性じしょう)がないことを「空」という。すべては空であって、夢・幻の如きものである。本来、聖でも俗でもないものを、聖とか俗とか判断するのは、私の心の区別、分別作用である。聖も俗も言語上の区別にすぎず、空という点では両者は不二である。

ものは、すべて、縁起の理論で無と否定されるが、否定されて無に帰してしまうのでなく、そのまま、縁起的には有として肯定される、という両面をもった存在である。そうであれば、自己主張の真・正・善性を標榜し、他を排除するところに闘争がくりかえされる現代の世相を思うに、絶対性を否定し、執着からの解放を教える「空」の考え方こそ、顧みられるべきでなかろうか。

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